1917

2月13日、吉阪俊蔵・花子夫妻の長男として、東京小石川区竹早町83番地(現在の小石川郵便局のあたり)の離れの8畳間に生まれる。「人は少なくとも7回以上生まれ変わって、500年地上での生活をするらしいが、その前世のことに関しては、一切記録も記憶にも今世に持参しなかったので、先ずこの変遷史の最初の分は省略せざるを得ない。」「吉阪家は代々灘の造り酒屋だったが、祖父の代に廃業、祖父は早く隠居して漢詩を楽しみ書をよくした(八木道)。父は6男であったが、兄の中には造船の勉強や香水の研究のため、フランスに留学したものがいたが、皆早死にした。直ぐの兄は日本画家であった。父は当時のILO設立精神に共鳴し、世界平和は社会主義なくして得られないと言う信念を貫いた。そして自由・平等・博愛を実践し、尚美術を好み、山を愛し、趣味の広い人だった。似顔絵やスケッチを筆でかいていた父を見ているとき、ILO中国代表に集印帳をもらい、それ以来横にいくらでも広がる集印帳を愛用していた兄も、それを見習ったと思われる。また、父はよく各地に旅行見学に連れていってくれた。夏は登山、冬はスキー、スケートを楽しんだ。最後の夏休みにガイド付きで父と氷河を渡り、4,000メートル級の山に登り、日本のどの山より高い所に登ったことを喜んでいた。山への愛着もこの頃よりはぐくまれたものだった。母方祖父、故箕作佳吉は蘭学者箕作元甫の養子の秋坪の3男で、18歳で渡米、米国エール大学、英国ケンブリッジ大学等にて動物学を学び東大教授になる。この祖父が、初め建築を志したが、強い近眼のため目的を果たせなかったということを聞き(ジュネーブ滞在中)、祖父の遺志を継ぎ、建築家になろうと決心した。」(妹・よし子談)

1920

父・俊三、国際労働理事会における帝国政府随員を命ぜられ、9月、家族揃ってインド洋マルセイユ経由でジュネーブに着く。ローザンヌに赴き、ローザンヌPension Mon Reposに入り、後Clermont Beausite3階に転ず。Ecole Eloberien幼稚園に通う。

1923

Gustadにて正月を迎えた後、日本に帰国する。「印度洋のあたりで、6歳の誕生日を迎えたので、船では、子供食堂でウェハースの小さなお家と黄色いひよこのついたバースディ・ケーキをつくって祝ってくれた。」豊多摩群大久保百人町(現在、自邸のあるところ)に建つ、大内兵衛邸を貰いうける。4月、暁星小学校入学。「君は大きくなったら何になるのと尋ねられ、坊さんになると答えて、皆から笑われる。」9月、関東大震災にあう。「グラッときた時、ヨーロッパ暮らしだった私にとっては何のことかわからなかった。」

1929

暁星小学校を卒業。正月半ば、父俊蔵がILO理事会日本政府代表事務所長に任命され、一家揃って再びジュネーブに向かう。ジュネーブに着いて「仏語に馴れるためにと、ある女子寮に預けられた。一部屋与えられたことは嬉しかったが、毎晩寮母がおやすみといってキッスしてくれるのが、いやでたまらなかった。」9月、ジュネーブ国際学校(私立)に入学。アルヴァ河に臨む台地のジュマン・デ・コタジュに移り、以後5年間そこで暮らす。「絵が好きだった父は、画家によく泊まってもらっていた。滝川太郎氏、東山魁夷氏などはここを利用されたのではなかろうか。滝川氏はここからの眺めを油絵にしてくれた。」

1932

家族と渡英。約1年間、英語勉強のため、エジンバラ大学の教授宅に単身寄宿する。

1933

5,6月頃、エジンバラからクェーカー教徒家族の元に移り住む。「日本のお友達(私)はキチンとネクタイをし、上衣を着ている・・・・。」秋、ジュネーブに戻り、家族より一足先に日本へ帰国する。吉祥寺の阪口玄童先生(成蹊学園国文学)宅の離れに下宿し、入試のために漢文と古文の勉強をする。暁星中学特別聴講生になる。

1934

父母、ジュネーブより帰国。百年町へ移り、家族と一緒に住む。

1935

4月、早稲田大学高等学院に入学。山岳部に入部する。「山靴もルックサックもその他身につけるすべての品々は、スイス製であった。」

1938

4月、早稲田大学に入学。「私が早稲田大学に入学したのを機会に、土浦亀城氏にお願いして、三角屋根の一部を削って、一部屋つくって貰った。」「この部屋での建築設計の最初は、今の上野の国立博物館のコンペ応募だった。」「私が入学したとき、先輩から『大学にいる間に何でもいいからせめて日本一のものを身につけろ』と言われ、私はせめて山岳部でと考えて、大学にいる間、年間200日以上を山で過ごした。」5月、日本建築学会に入会。この年の3月、「山岳会会報」(日本山岳会)に「モリス氏の話」と題する文章を初めて発表する。

1939

今和次郎先生の指導で、須田誠二氏・佐々木嘉彦氏・久保氏と共にいく度か農村および民家の調査に出かける(1940年にかけて)。「確かに今先生は、私にある方向への興味への初速をつけられた。住生活に一番取り組んでいられた頃かと思う。また、学生の頃にはまだ民家の名残があって、よく田舎へお伴した。」

1941

3月、早稲田大学建築学科卒業、卒業設計「厚生環状に建つ中央会館」。4月、早稲田大学建築学科教務補助となる。この年、木村幸一郎先生に同行し、北千島学術調査隊に加わり、主に北千島の住居・建築についての調査を行う。その後、北支満蒙調査隊に参加、十代田三郎先生と共に調査を行う。「ロココ様式ニヨル室内並ニ家具」(「早稲田建築学報」第17号)、「自然環境と住居の形態」(「探検」第2号)を発表する。

1942

4月、今和次郎先生の後を受けて、日本女子大学住居学科の講師となる。「戦後、日本女子大の住居の講義をやれと言われたのが、住居学への第一歩だったろう。経験も体験も少ない私には、概念論しかできなかった。それには言葉の解釈がもってこいだった。いろいろな国語によって視点に違いのあることを教えられた。」8月15日応召。姫路の砲兵隊をふり出しとし、終戦までの間、佳木斯、奉天、新京、公主嶺と、各地を点々とする。

1945

長距離電話で父母に、満州で嫁を迎えることを伝え、7月28日、甲野富久子と結婚をする。朝鮮の光州で終戦を迎え、木浦より船で、唐津、別府などを経て、東京に戻る。百人町の家が5月の空襲で焼失したために、しばらくの間、井荻の江藤邸に間借りする。

1946

4月、東京農業大学の講師に就任。7月、長男・正邦誕生。11月、早稲田大学専門部工科講師となる。この年、東京都商工経済会が主催した「銀座消費観興計画」及び「渋谷消費観興計画」の二つのコンペに、武・大林・秀島各氏と共同で応募、いずれも1等をとる。この時の賞金で方南町にあった小さな小屋を百人町へ移築しバラック生活を始める。また「積雪学への提案()」と題する論文を雑誌「雪氷」に掲載しており、以後数年間、雪についての論文を盛んに発表する。

1947

4月、早稲田大学専門部工科助教授に就任。今和次郎先生の昭和の5人組住居の考えに共鳴し、百人町の土地を開放、同級生2人(須田・佐々木氏)と共同生活を始める。そこを拠点に生活研究会を催す。

1948

2月12日、「今先生を百人町のバラックへご案内、先生、写生をされる。第一声(乱雑になった室を見て)『どこでも同じだな』次の質問『君の得意とするところはどこだね』第二声『小さいと皆苦心して工夫するね』(台所と風呂などを見て)」3月20日、次男・正光誕生。

1949

4月、早稲田大学第一・第2理工学部助教授に就任。翌年フランスに渡るための準備に着手。日本を離れる前に、と今先生にハッパをかけられ、「住居学概論(3冊分)」(日本女子大学通信教育出版部)をまとめ、それを元に『住居学汎論』(相模書房)の出版準備をすすめる。

1950

戦後第1回フランス政府給付留学生として渡仏。9月25日パリに入り、日本館学生寮(別名薩摩会館)の22号室にて生活を始める。「フランスへの船中、森有正氏の勧めで『失われた時を求めて』の小説を読む。フランス人の住宅や、生活を探るのに重要な足がかりとなる。」「9月30日、本屋で"Modulor"をみつけたことがうれしくて、とんで帰ってむさぼり読む。」「10月23日、コルビュジェのアトリエを訪ねる。コルビュジェにアトリエで働くようにすすめられる。運命は私に何をしようとしているのか。今、コルに会って、コル以外をすててもよい位まで思える。」コルビュジェのアトリエにつとめ始め、この年には南仏の連れ込み宿の設計を担当する。また、この間も、フランスの雪氷研究所の様子を紹介する文章を「雪氷」へ送り続ける。

1952

コルビュジェのアトリエでは、ナントの住居単位の設計や、マルセイユの住居単位の現場管理を行う。仕事の合間をぬっては、フランス中を自転車で走り回ったり、人類博物館を訪ね歩いたりする。7月、CIAMの総会に出席するためにホッデスドンに出掛ける。その報告をはじめとし、ヨーロッパの建築事情を日本に精力的に書き送る。

1953

マルセイユのユニテの落成を機に帰国する。途中、アラブ経由でインドシャンディガールに立ち寄る。11月、早稲田大学に復職、「ル・モデュロール」(訳)を美術出版社から出す。

1954

10月、甲野の父、謙三死去。住宅金融公庫から合格通知が届いたのを機に、自邸の設計を始める。前年の『ル・モデュロール』の翻訳に続いて、「アテネ憲章」「CIAMを日本に招け」などを発表。

1955

4月、日本雪氷学会理事に就任、日本建築学会南極建築委員会委員ともなる。暮れには、イタリア・ヴェニス・ビエンナーレの日本館設計のためにヨーロッパに渡る。「ブラジル・サンパウロ・ビエンナーレ第2回学校単位競技設計」の指導で前年に引き続き1等を獲得、百人町の自邸もこの年に完成する。ル・コルビュジェ来日し、吉阪自邸に招く。『環境と造形』(河出書房)を出版する。

1956

3月から8月までの間、イタリア日本館の設計・管理のため。、ベニスに滞在する。帰国後、CIAM第10回会議報告等を行う。翌年にかけて、浦邸、ヴィラ・クウクウ、十河邸、丸山邸など多くの住宅設計を手がける。

1957

12月、早大アフリカ遠征隊にマネージャーとして参加、赤道アフリカの横断に出掛ける。それもあってか、この年には南極・山・スポーツに関する文章・論文を30本近くも書き上げ、まさに探検に明け暮れた年でもあった。「ブラジル・サンパウロ・ビエンナーレ第3回学校単位競技設計」指導で三度1等を受賞。

1958

7月、父・俊三死去。ブラジル・リオデジャネイロで開催された、国際都市計画シンポジウムに、ブラジル政府招聘講師として出席する。12月、「不連続統一体」と題する論文を発表。長崎の南山小学校、海星学園の計画を行う。

1959

4月、早稲田大学第1・第2理工学部教授に就任。同月、日本雪氷学会常任理事ともなる。ベルギー領コンゴ・レオポルドビル文化センター計画(前年に発表した「不連続統一体」の考え方を、最も端的に表現した作品)の国際コンペでは3等を受賞。また、この年にできた日仏会館の設計によって、フランス文化勲章が与えられる。NHK教育テレビで「美の原理-素材を拾う」を25週にわたって担当する。『モデュロール』(美術出版社)を刊行。

1960

早大アラスカ・マッキンレー隊に隊長として参加、アラスカ、カナダ、北米西海岸を縦断する。『都市論(建築学大系2)』(彰国社)、『ある住居』『ある学校』(共に相模書房)が刊行される。また雪氷学会には、アラスカ・マッキンレーの雪について、多数の報告をしている。

1961

1月、実行委員の一員となって、西洋美術館でコルビュジェ展を開く。それに前後して、コルビュジェについての講演を、アテネ・フランセ、武蔵野美術大学等で行う。この年の4月から翌年10月まで、アルゼンチン国ツクマン大学招へい教授としてアルゼンチンに滞在。その間、南米、中南米諸国を歴訪する。『原始境から文明境へ』(相模書房)を出版する。

1962

7月、アルゼンチン・ツクマンにて長女・フェリサ・岳子誕生。10月、アルゼンチンより帰国。この年の暮れ、今和次郎の服飾史の講義を聴き、ネクタイの歴史を知ってから以来、ノーネクタイで通すようになる。

1963

前年設計した「アテネ・フランセ」で建築学会作品賞を受ける。この年、第7回UIA大会が初めて共産圏(キューバ・ハバナ)で開催され、出席する。後にトレードマークにもなったヒゲを伸ばし始めたのも、キューバでゲバラ、カストロに会うためだった。死の直前まで情熱をかたむけて研究を行っていた「有形学」を、この年、初講義する。

1964

早稲田大学産業技術専修学校開校にともない、建築科主任に就任。9月には理工学部建築学科主任になる。U研究室を設立、取締役会長に就任。15年前に書いた『住居学概論(3冊分)』に加筆・訂正を加え、1冊の本『住居学概論』(日本女子大学通信教育部)としてまとめる。また、これを元にして『住居学』(相模書房)を執筆、翌年出版する。ツクマン大学での経験を元にした「中南米の建築教育」を26回にわたり「週間建設ニュース」に掲載する。この年より、八王子の「大学セミナー・ハウス」の設計・監理に取りかかる。高田馬場再開発計画の適地調査とパイロット・プランもまとめる。

1965

正月早々、大島元町大火に対し、復興計画案を新聞紙上に提案する。8月、ル・コルビュジェの死以後、追悼及び業績を各紙に執筆する。この年には、台湾(第8回建築公師会総会)に出掛けた後、ヨーロッパ、北欧を明石信道先生などとまわり、その間、住宅地域計画会議(オーレブロー)や第8回UIA大会(パリ)等に出席する。「都市の大きさに関する研究1・2・3」(日本建築学会論文報告集」)を発表、またこの年には書庫を自邸の庭につくる。

1966

1月、日本建築学会副会長に就任する。UNESCO日伯文化交流会議の講師として招かれ、7月から8月までの間サンパウロに滞在する。早稲田大学大学院都市計画コースができる。高田馬場再開発基本計画をまとめるなど、この年よりアーバン・デザイン論を展開する。『メキシコ・マヤ芸術』(彰国社)を翻訳・出版する。

1967

この年、日本建築学会農村計画委員長となる。3月から5月までの間、シドニー大学招へい教授として、オーストラリアに滞在。その後、日本建築学会80周年記念講演会の講師として、韓国のソウルを訪れる。鹿島出版会より『建築をめざして(訳)』を出版、『日本建築学会大会梗概集』においては「建築家の創造的資質の判断方法について」を発表する。大島元町の復興のための基本計画・基本設計をまとめる。

1968

7月、厚生省自然公園審議会委員に就任する(1972年7月まで)。この年、オーストラリア・パース市に、第10回都市計画会議の講師として招聘される。10月には、第1回日本建築学会欧米建築視察団の団長として欧米をまわる。『現代住居論・人間と住居』(住宅問題口座1、有斐閣)を出版、「造形の生態学的考察」を雑誌「建築」へ約1年間連載する。

1969

7月、大学紛争に揺れるさなか、早稲田大学理工学部長に就任する(1962年9月まで)。「人間誕生=F(形姿+意味):ホモ・ファーベル論」を『日本建築学会大会梗慨集』に発表する。またこの都市から、弘前市の都市計画、津軽の農村調査に着手する。

1970

5月、早稲田大学評議員、内閣審議室「21世紀の日本」審査委員会審査委員に就任、10月には早稲田大学体育局山岳部長となる。この都市には、漢陽大学・早稲田大学合同韓国集落調査団に団長として加わり、韓国をめぐる。以来、アジアに対する関心が高まり、東南アジアを中心に、台湾、フィリピン、中国、香港などを次々と訪れる。「魚眼レンズ的世界把握について」(『日本建築学会大会梗慨集』)、「巨大都市の変遷」(「space modulator」)「雪国の都市と建築について」「雪のあるところが文明国」(共に「雪氷」)、「弘前市生活環境計画」等を発表。

1971

前年より編集委員として、月に2度ずつ会合を重ね、準備を進めていた『今和次郎集』全9巻(ドメス出版)が刊行され、第4巻『住居論』に解説「顧みてホルメを知る」を執筆。これに先駆け2月には『今和次郎集』出版記念会「考今会」が、今日の日本生活学会の母体となる。5月には早稲田大学商議員、7月には東京恵比寿ライオンズクラブ会長、10月には国立放送教育開発センター大学教育実験番組放送科目編成委員会委員に就任する。この年には2月に台湾へ、3月には韓国漢陽大学へ講演のために出かける。8月AICA総会参加のためアムステルダムへ行き、オランダの干拓地を見て回る。秋には、日本工学会団長として、ヨーロッパ各国をまわる。

1972

春から夏にかけてテレビ大学講座「住居学」(UHF実験放送)を15回シリーズで担当、7月には今先生とNHKテレビで「風俗考現学からの生活学の提唱」と題する対談を行う。9月、生活学会の設立準備のため、川添登・竹内芳太郎・菊竹清則・梅棹忠夫の各氏らと共に活動を始める。この年、チャンディガール研修会団長としてインドへ、またヨーロッパ(マドリッド、ニース、ゼェノバ、フィレンツェなど)にも出かける。『住居学概論』(日本女子大学通信教育部)の改訂(第1版)を行う。『巨大なる過ち』(紀伊国屋)を翻訳したり、早稲田大学理工学部長在任期間中に出した告示などを集めて『告示録』(相模書房)を出版する。

1973

日本建築学会会長(1月)、環境庁自然環境保全審議会委員、建設省建築審議会委員(5月)など、多くの役職に就く。10月今和次郎先生死去。巨大開発・巨大技術への警鐘・抵判を、関連する審議会等の活動や、文筆活動を通して展開する。「自然の掟に逆らうものはそのしもべにくだり、自然に奉仕して掟に従うものはその主とならん。自然はすべてのはじめであり、人々の愛もここに始まる」(11月27日)「杜の都・仙台の姿-その将来像を提案する」や「津軽地域の農村集落整備に関する調査研究」「弘前市積雪都市計画」をこの年に発表する。

1974

1月、日中建築技術交流会会長に就任、4月には芸術選奨選考審査委員(文化庁)になる。12月、日本生活学会会長に就任。3月、日中建築技術交流会訪中団団長として、北京・西安・広州をまわったのを初めとして、7月には早大21世紀の会主催の船上セミナーで香港へ。8月、集落調査のため、韓国(木浦・多島海・ソウル)へ、9月東欧諸国(トルコ・ブルガリア・ハンガリー・ユーゴスラビア・オーストラリアなど)へ、11月、チャンディガール研修会団長でインドへ、とこの年だけで都合5回、海外へ出かける。また、前年いった計画提案「杜の都・仙台のすがた」に対して、都市計画学会・石川賞が与えられる。この年より、農村環境改善センターの調査と基本計画のために、農村各地を回り始める。日本生活学会第2回月例研究会(9月)では、「生活と形(有形論)」を報告する。

1975

6月、日本建築積算協会会長に就任する。これまでに描き集めたスケッチや地図などを集めて「パノラみる展」を1月に、小田急ハルクで開く。3月、第5回EARPHマニラ会議(東アジア住宅地域計画会議)に参加するために、フィリピン・マニラに出かけ、10月チャンディガール研修会団長としてインド各地をまわる。大学院都市計画研究室の過去10年の成果をまとめ、「吉阪研究室の哲学と手法-発見的方法」を雑誌「都市住宅」に発表する。また『生活学第一冊』に「生活と形(有形学)」を、「生活学会報第3号」には「シンポジウム 生活システムをめぐって」を掲載。この年より、農村公園の調査・診断を始める。

1976

2月、マニラ・トンド地区コンペの審査のために、カナダ・バンクーバーへ、3月には日中建築技術交流会訪中団団長として中国(北京・鄭州・武漢・柱林・広州・上海)へ、秋には日本建築積算協会セミナー団長としてヨーロッパへ行く。『世界の建築』(『世界の美術第13巻』世界文化社)をまとめる。

1977

2月、門下生が集まり、還暦の祝いの会を催す。5月、日本建築家代表団団長としてパリ・バルセロナ・ニースへ行く。8月、日本農村建築訪中団団長として北京・大寨・青島・済南・上海等を訪れ、主に人民公社を見学する。9月、文部省放送大学教育課程編成委員会委員に就任。10月、ヨーロッパ建築研修団の団長として、マジョルカ・アルジェ・モロッコ・スペイン・パリを訪れる。コルビュジェ全集の翻訳に手をつける。

1978

ボストン・ハーバード大学G.S.Dの招へい教授として1月25日から5月31日までアメリカに滞在、その間にも『ル・コルビュジェ全作品集』の翻訳を行う。「今度私がアメリカに行ったら、メシがまずいぞとか、パックした缶詰とか、ああいうものしかなくて、あれを何ヶ月もくわんならんから、かなわんと思っていたんです。ところが案外そうでもないというのがわかった。というのは、そういうパックにしたものと、生ものの上等の料理があるんです。それを両方併せて料理をすれば、非常に簡単に料理ができて、しかもおいしくなる。だから手でやる仕事を若干プラスしながら、工場のやってくれているものの上に乗っけてゆくことが、これからの生活じゃないか」(「建築雑誌」1978年11月号座談会より)8月、夫妻でアフガニスタンのカブール、バーミリアン等を訪れる。11月、早稲田大学専門学校校長に就任。

1979

6月、早稲田大学生活協同組合理事長に就任。8月に日中建築技術交流会で上海・坑州・北京などをまわったのに続き、11月には日本デザイン・コミッティーのメンバーと共に、北京・重慶・成東・昆明・広州・香港を訪ね歩く。『ル・コルビュジェ全作品集』全8巻(訳)(A.D.A)を完成させる。この年には「わが住まいの変遷史」を雑誌「ニューハウス」に連載するなど文筆活動に精を出し、1年間で60本近く、翌年をあわせると110本近くの論文・文章を書きあげる。

1980

1月、「ミロ展」へ行き、その奔放さにいたく感激する。「これだけ自由奔放に子供のように、形や色の面白さにとけ込めたらいいだろうな」(1月28日)5月、定住性の研究のために松阪市を訪れ、調査を行い、堀阪山へ登る。7月、市庁舎コンペ審査のため、アブダビに向かう。8月生活学会サマーセミナーに参加し、奥会津の針生と大内を訪ねる。前年より準備に取りかかっていたテレビ大学講座「生活とかたち-有形学」の録画を5月から10月にかけて行う。放映は8月から1月。最終回の録画撮りを終えた日(10月28日)、その足で胃腸変調のため聖路加国際病院に入院、12月2日に手術を受ける。12月17日、聖路加国際病院で、ガン性腹膜炎のため死亡。12月17日、正5位勲3等端宝賞追贈。