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序—狩りを継ぐもの

建築家、鈴木恂へのインタビューにあたって

風景の狩人
風景の狩人、彰国社刊
『風景の狩人』彰国社刊

『風景の狩人』。恩師、鈴木恂の論考を集めた書籍のタイトルである。鈴木は個人での渡航がまだ難しかった1960年代はじめから文字通り世界各地へと脚を伸ばし、スケッチや写真、論考といった形で思考の軌跡を重ねて来た。別の著書『光の街路』の冒頭に「遊歩の達人、吉阪隆正先生へ」と捧げられている通り、その師、吉阪隆正の遊歩に倣うかのように。

鈴木がある土地を訪ねる際、最も注意を注ぐのがその土地への「たどりつき方」とそこからの「去り方」だという。陸路か、空路か、その前に訪れる土地は、その後に訪れる土地は、ということを綿密に練り上げて来たようだ。旅を重ねる上で気持ちの高まりを演出するための彼ならではの方法ではないだろうか。

目的地となる街や村へ着いた後の行動を想像してみよう。おそらく彼はガイドブックの類いやマーキングした地図を手にしつつ、スタンプラリーに興じるようにいわゆる名所・名建築を巡る、という方法は取らない。あらかじめの知識に基づく体験、というものをあまり信用していないようなのだ。それよりも、生のまま街に出て、その土地や人々、その生活を鋭く観察する中で彼が次に観るべき場所を読み解いていく、というプロセスを重視しているようである。あらかじめの知識をもとにそれを確認しに行く作業は彼の旅の方法ではなく、而して彼の軌跡は至ってリニアなものになっているはずである。そのリニアで数珠つなぎともいえる狩りのエリアを徐々に広げ、面的なものに再構成しているように見受けられる。

鈴木がそうした方法に至るにあたっての紆余曲折については、別掲のインタビュー「実測とスケッチ/撮影」*に譲るが、彼が自身の方法論を決する上で大きな契機となったのは、メキシコをはじめとした中米への調査旅行だったといってよい。

狩人の誕生
『メキシコ・スケッチ』丸善刊
『メキシコ・スケッチ』丸善刊

当時20代半ばの鈴木は、まず1961年に早稲田大学が編成した中米探検隊の一員としてマヤ・アステカをはじめとする古代文明の遺跡を調査・研究する旅団に同行しており、翌年、改めて個人的にインカ帝国も含めた中南米の旅へと赴く。そしてこの旅はメキシコを起点に地球を東に周る旅のきっかけとなった。それらの旅の過程で彼は無数のスケッチと写真をものしている。特にスケッチは後年「メキシコ・スケッチ」*として書籍にもまとめられた。

メキシコのユカタン半島を空路で旅すると村々の典型的な成り立ちを目にすることができる。数キロおきに点在する村をいくつかの幹線道路がつなぎ、それぞれの村は教会とその広場を中心とした(たとえ疑似グリッド状であっても)放射状のグラデーションを帯びてひろがる街路によって構成されていることが多い。これは明らかに16世紀のスペインなどによる入植以降かたち作られて来たコロニアルスタイル(植民地的都市計画)の名残であろうが、外部からの訪問者(観察者)として鈴木がまず村にアプローチするのはその外縁からである。そこから村の中心であるはずの教会広場へ向かって糸をたぐり寄せるようににじり寄って行ったはずだ。

先に紹介した調査旅行の経由地であったアメリカの計画された都市との比較において、彼はメキシコの街の印象を次のように記している。

「ものの骨格という点から見れば、素朴でラフな構造なのだが、空間の骨格は以外に図太く広がっている。黙って道をたどっても街へ導かれ、街が語りかけてくるように、決まって車を止め、車外に出て歩き回らざるを得ないような出来事に遭遇し、結果として街との付き合いなくして、その街を素通りすることができないようになっていた。」

そのように街をたどろうとする鈴木のサマは文字通り、人々が集い、生活が営まれている「景」を射止めようとする「狩人」そのものであろう。


大きな地図で見る

それは「スケッチ」ではない
『回廊』中央公論美術出版刊
『回廊』中央公論美術出版刊

鈴木は『回KAIRO廊』や『天幕』といった写真集に表れているように、写真というメディアで「風景」を定着させて来たことが近年の出版により改めて広く知られるところとなった。しかしそれ以上に、何をおいても「スケッチ」の達人である。明らかに今和次郎、吉阪隆正の系譜に位置づけられるのだが、そのスケッチの意味するところは、今日において改めて評価されるべき示唆に富んでいる。

鈴木のスケッチが気に入った風景をただ写生したものでないことは、少し注意深く見ていけば明らかであろう。鈴木による「スケッチ」は、単なる絵ではなく、五感を総動員した観察に基づく思索の経緯そのものである。彼の長きにわたる活動を通して、ある意志のもとに継続して「今も」行われており、それはすでに「風景を描写するために描かれたスケッチ」ではない。いわゆる素描とはまったく異なるものなのだ。 

彼は訪れる土地、土地で自らの身体を尺度とした文字通り実測調査を続けて来た。しかし、それは考古学などで重視されるように学術的な資料価値に重点をおく、現状を如何に正確に定着させるか、というものでは全くなく、もっと自由な彼独自の方法論に基づくものである。発表されているスケッチの数々を見る限りにおいて、彼のそれは空間のフレーム(先の鈴木の言葉で言えば、空間の骨格)そのものを読み解こうという意志に満ちあふれているように思われる。ひとが構築し、日々を重ね、利活用されていく中で改変が重ねられて来た過程の中になお残り続けている、寸法だけで表すことのできない空間のフレーム、とそれら相互の関係性というものを追い求めているようだ。

繰り返しになるが、その実測調査は現状を正確に記録する、というよりも、空間を構成しているスケール、素材に文字通り直に「触れながら」、その空間を成立させるに至った社会的背景、人々の営為を観察し、空間のフレームそのものの「気配」を感じ取ろうとするものである。別掲のインタビューで聞かれた彼自身の言葉を借りれば、「空間を何とか咀嚼しようとして描かれた」ものどもだったということになる。

さて、ここでいう「空間」とはどういったものだろうか。鈴木が写真やスケッチを通して描き出そうとして来たものの対象はいわゆる一般の建築物、にとどまらない。さらに言えば、彼の興味は建築物そのものに対してよりも、建築物が周囲の環境と取り結ぼうとしている様相の方により多くそそがれている。

そのことは先に紹介した写真集、『回KAIRO廊』、『天幕』の編集方針にも如実に表れている。ともすれば人が全く映っていない写真ばかりがコレクションに増えてしまいがちな「建築家のアルバム」において、逆に鈴木のそれに見られる写真の数々は、ひとびとが織りなす生活の気配に満ちあふれている。つまり、彼の被写体への興味は「物質」としての建築物ではなく、その空間で紡がれている「行為」の方にあるのだ。鈴木の言葉を借りれば、広義の「すまい方/すまわれ方」である。その「すまい方/すまわれ方」を生み出し得ている空間のフレームへの興味がそうした写真の数々として我々の目に触れていることになる。

おもに理論によって構築されて来た<建築>の姿よりも、建物が都市の中で果たして来た役割、それも意匠の対象としての、オブジェクトとしての建物そのものではなく、建物周縁の、より定義があいまいな境界領域の方に彼の視線はフォーカスされている。あるいはオブジェクトの輪郭を与えられることによって逆に明らかにされている都市の空隙をこそ見ようとしているのだと言える。

メジャーリング、スケーリング、そしてセンシング

鈴木による論文、「実測小論」(初出は『都市住宅 6901』、『風景の狩人』に採録)は彼自身が語るように彼の実測に向かう姿勢をよく表している。

解りやすい部分には多くのデータがそろっても、解りにくい部分にはそれを知る方法すら見当たらない. そしてわれわれが解りたいのはこの解りにくい部分なのだ.

遠のいてみるより近づいてみることがそうした部分では必要であり,触覚性を通して対象である空間を内的な体験にひきこむことができる.
同一の場に居合わすことは聴覚や視覚以上に根源的なわれわれの触感覚をはたらかせるのに好都合でもあるということである. 基本的にいって部分環境を知る第一歩は同一の場に居合わすことでありその空間の体験を必要条件とすることなのだ.

ここでいう実測とは行動科学の方法としてとらえてもよいが,かなずしもメジャーリングを指さない.一般的には前述したように全体と部分の相方のスケールに同時にあてはまる,または逆に計測しにくい部分のためのスケーリングの総合的行為を指している.

つまるところ鈴木がいう「実測」とは身体を通した「センシング」のことではないだろうか。鈴木が実測調査、と称するアクティビティを行っているあいだ、明らかに触覚からの情報のみならず、明暗や喧噪、そしてにおいのグラデーションのなかに存在し、それらを彼の周囲全方位から感じ取っているに違いないからだ。実測調査の結果として示されている彼の成果物は彼自身の身体全体によるセンシングの賜物として考えるべきだろう。
彼は先に掲げたインタビューにおいて「明るいと感じたら、それは明るいんだよ」と語っていた。これは事象を機器で測定することの意味とは別のところにある。測定器がはじき出す数字のために我々はものをかたちづくっているわけではないのだ。

狩りを継ぐもの

彼は触覚に従い、表層を辿りつつも勿論知りたいのは表層そのものではない。彼が見たい、あるいは心底理解したいと感じてきたのはその表層の向こうに見え隠れする空間の骨格そのものの方なのであろう。従って、ラテン・バロックの建築を見てもその表層に踊らされることなく、表層を生み出すに至るラテンの血に思いを馳せるのかもしれない。

インタビュー時に鈴木が語った次のような言葉が強く印象に残っている。
「僕にとれば、ここの中のこのやわらかい空間のためにつくってるだけの話であって、形がやわらかいかどうかってのは問題じゃないんだよね。何か有機的って、有機的な形してないとダメだって、まだみんなそう思ってる。」
 

鈴木が重ねて来た行為を彼の活動が最も盛んであった時代になぞらえて「デザイン・サーベイ」の中に位置づけることは一見簡単なように思われる。しかし、そのことによって彼の営為を理解したつもりになっては早計に過ぎるだろう。彼自身が繰り返し述べている通り、彼が続けて来た作業は「プレゼンテーションのための調査」とは全く異なるものである。そのために彼はその実測調査に基づく営為を他者が共有可能な方法論として発表しようとはして来なかった。それはあまりにも個人的な営為の記録でしかなく、それでも続けざるを得なかったことを鈴木自身がよく自覚していたからなのだ。彼が願っているのは彼の編み出した方法論を他者が援用することではなく、彼のように彼の地へ直接出かけて行ってそこで見たもの、触れたものをそのもの独自の方法で見せてもらうことなのだろう。

結局、彼の営為はそれを追体験したものによってしか文字通り体得することはかなわないだろう。矢萩喜從郎が著作『空間・身体・触媒』で西澤文隆と鈴木の対談を取り上げたように、実測について知るもののみが、身体的に体得していて、わかりあえる感覚があるようなのだ。

今日、様々な情報源からおもに視覚に偏った彼の地の情報を手に入れ、文字通り「行った気になる」ことはたやすいことになった。しかし、人々の生活が息づくその場所に居合わせて、それを何とか自分の手に、身体に刻み付ける、という行為が必要なくなった訳ではないはずだ。


今も新しい狩人が必要とされていることに変わりはない。

(文:濱中直樹、1992年 研究室卒)