interviews

住まいの原理—住む力-1

鈴木恂インタビュー

2011年12月26日

於:AMS

この年の3月11日に東日本をおそった大震災についてお話を伺いました。

—今年の最後を締めくくるにあたって、これまでお伺いできていなかった今回の震災についてお話を伺いたいと思います。テーマとした「住まいの原理—住む力」というのは、先生の絵本『家と身体』*1から触発されたのですが、この本の背景などからお聞かせください。

この本はシリーズでもう何冊か出ている。はじめ真壁(智治)くんからは、そのシリーズの一冊で絵、あるいはスケッチを描いてくれ、という依頼があった。しかし、これまで出版されたものをいくつか見せてもらったときに、とてもじゃないけど、絵はちょっと勝負になりません、という話をしたんだ。そうしたら、具体的な「絵」ではなくても結構です、という言葉が引き出せた。
それだったら、というわけで今まで描いてきたものを頭の中で組み立てて流れをつくっていった。こうしたつくり方は『回廊』や『天幕』のときもそうで、具体的な物語が先にあった、というものではないんだな。むしろイメージ展開、それを視覚的な流れとして見える本にできないかっていうのが着想の基本にあるんだよ。描いたスケッチをみながら決めていくという流れだね。

—スケッチはどれくらい古いものが含まれていたのでしょう。

古いものはうんと古いよ。もう十数年も前のものもある。主にね、草花の汁で描いたものなんだ。草花の花弁や種子をつぶして画材代わりにした。
<本をめくりながら>例えば、これはね、ビーツ。 これはユリ、これはアジサイだね。 ギューッと搾ってその汁を使う。江梨(注:先生の別荘がある西伊豆の地)にある草花も多いね。絵のテーマはいつも「空間」だった。空間のイメージ、その感触だったね。

『家と身体』表紙
子どもたちに伝えたい家の本 No. 22
2006、インデックスコミュニケーション社

—中川幸夫さん(華道家、故人)を思わせるところもあります。

中川さんか、懐かしい人ですね。何度かギャラリーTOM*の審査でご一緒した事がある。あのバラやチューリップの汁に代表されるように、彼はとても優しい方だったけれども、出てくる言葉とイメージは鋭くて、厳しい力を持っていた。
ところで、「身体」っていうのは一度改めて考えてみたいテーマだと思っていたから、このような場が与えられて、古いものもこうやって見返すいいきっかけになった。
ぼくはやはり肉体派で、身体ですべてを知るほかはない、ということでやってきたから、その「身体と家」を結びつけるために「触る、触れる」という言葉をもってくることになった。これは昔から言ってきたことだけど、実際にそれを絵柄に関連づけてみたり、こどもに伝わりそうな言葉にしていく、というのは案外難しいんだよ。心と身体が一緒になっているのか、別になっているのかなんていうことすらわからないんだからね。
ただ、建築をつくっていく上では、心も身体も一体にならないとできないんだろうというぼくなりの考えはある。身体のなかに精神が含まれていると考えているね。

—なるほど、不可分なもの、ということですね。

不可分、というよりも、何かこう、包まれているんじゃないかと思っているね。

—この本のために書き下ろされたものはなんでしょう?

この文章だね。絵の方はなかった。こうした絵もそのときのその植物・自然とぼくと身体のひとつの出会いの記録でもあるんだ。
前にも言ったように、ぼくは絵を描くときいつも空間っていうことを考えようとしている。ものの形、ということではなくて、ここにどう空間を表すのか、ということをテーマに描いている。もちろん空間には触れ得ない、というのが一般的な答えなんだろうが、それに触る事ができる、ということを信じてやっている。
そして、それを探すために、身体を意識しないわけにはいかない。あるいは触るためにどうしたらいいか、ということを含めて描こうとしているんだ。

—本の中盤に娘のうららさんに贈られた家具、というか建築がこの本でほとんど唯一構築的なものとして登場しますが。

これは彼女が小学生になるときにプレゼントしたんだ。空間に触れる、としたときに小さな子どもが触れるすべてをここにパッキングしたことを思い出したんだ。そうして机もイスも本棚も寝床も出来上がったよ、と。

等身大の贈り物—小学一年生になった娘のためのヌック。
『家と身体』より

—先生のお話によく登場する「触る」という感覚については実際に触覚的に触る、ということ以上に身体全体で感じ取る、ということを「触る」という言葉で表現されているようにも思うのですが。

まあそう分けてしまったら身もふたもない(笑)。だからここでも「触る」ということだけではなくて、やはり見て触る、とか感覚のすべてが動員されていく感じを伝えようとしている。しかし、肉体そのものにダイレクトに伝わる、という感じでは触覚が一番強いことは確かだ。感覚の一番の導き手が触覚であり、その生(なま)にいろんなものを伝えてくれて、それを捉えさえすれば五感がパッと開いてくるだろう。身体が身体であるためには触覚の復権が必要だよ。

—さて、震災に関してですが、10月に開催されたOB会でも少しお話がありました。また、今回特徴的なこととして、関東大震災のときのようにバラックが建ち並ぶ姿を見ることがなかった、ということがありましたが。

今回は人と土地の間が完全に断ち切られている、ということだろう。これはやはりすごいことだよ。そこに建てられない。特に放射線の汚染については、この先何十年という単位できちんとした結論は出せていない。こうしたところは再生の仕方がうんと違ってくるだろうね。
震災のような事態をきっかけに「身近なもの」を失っていく、失うだけじゃなくて完全に断ち切られていくということ。それは何かというと、ぼくの考えでは、それは「空間」なんだ。空間を失っちゃうんだよ。空間を失う、断ち切られる、断絶される。空間に何が入っているかというと当然記憶やものすべてが含まれてくる。空間とものはなかなか分けられない。ものには姿形があるわけだから、それそのものが空間だっていうことすら言える。
人と人が断ち切られる、人とものが断ち切られる、または失う、遠のけられるとか、あらゆることが起きちゃったんでしょう。それは地震で起きて、津波で起きて、さらに原発事故でまた起きて。それらは自然災害、人為災害がすべて重なって起きている。あらゆるものが人と何かの関係を全て切断していっちゃう。
考え方とすれば、やはりその失われたものを空間としてどのように取り戻すかということなんだろうと思うね。建築家はその取り戻す過程において様々な形で関わりをもつ可能性がある。やはり無理矢理断ち切られたそれぞれの「身近なもの」を取り戻すことからはじめなくちゃいけないのではないか。それは先ほどの「触れる」ということとも関係してくるんだけど、「身近なもの」、「身近と感じるもの」というのは日々触れるもの、触っているものであった訳だ。「身近なもの」で我々の住居という空間は埋まっている。その「身近なもの」には実際の様々なもの、そのものたちが醸し出していた空気、そういったすべてが含まれる。「身近と感じるもの」で満たされているものを「家」と称するんだよ。
だから一旦断ち切られてしまった関係を取り戻すことはなかなか簡単なことではないと思う。新しく手に入れたものが自身の環境を踏まえつつ選択の過程を経て「身近なもの」となっていくにはそれなりの時間がかかるからだ。逆にいえば、カンファタブルなものだけを用意して、さあどうぞ、というだけでは意味がない。やはり、段階を追いながら「身近なもの」が成長していく過程を経なくちゃいけない。それがないと今回の大きなカタストロフィを乗り越えていけないのではないだろうか。
人というのは厄介なもので、あれだけの災害があったあとでも、もう海岸の市場には人が集まっている。危険な場所で恐ろしいことだとは思うけれども、人は動き生活する事を止めない。高台移転にしても、高脚の建物をつくる、といった提案にしても、触覚や身体の感覚を鋭敏にして、身近なものからの発想を大切にして、一人でも多くの人がそういったディスカッションに加わってやっていきたいね。
建築家に何ができるかっていろんな人が語っているし、建築家は本当に頑張らなくちゃいけないんだろうけれども、ぼくは今活動する能力が完全に落ちてるから、残念ながらそういったことに実際に携わることは難しいがね。

<つづく>

1 | 2 >