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住まいの原理—住む力-2

鈴木恂インタビュー

2011年12月26日

於:AMS

この年の3月11日に東日本をおそった大震災についてお話を伺いました。

— ここで興味深い論文をご紹介します。早稲田大学で教鞭をとられている中谷礼人さんが篠原一男さんの「白の家」について書かれているもの*1です。写真の端正さの決め手となっている黒い扉の向こう側がテーマになっているのですが、それは先生が以前OB会の際にお話しされていた民家(住宅)における「蓄えの原理」につながるものだと感じています。

そうだね。ぼくも「家」というのは「蓄え」ということをせざるを得ない、ということを「箱と袋」*2に何章か書いている。それは繰り返しになるけど、「身近なもの」なんだと思うんだよ。その中には連綿と先祖からつながってきているものがあったり。民家における納戸というものは、単にものをしまっておくと同時に、きちっと記憶を収めておく場所でもあるわけだ。時系列で思い出を収めるとか、そういう感じなんだよ。そして建具一枚といえどもハレの場所とパッと縁を切ることができるようにできているわけ。その建具の使い方で空間を変えていくこともできるわけだ。「白い家」の黒い扉もその類だね。
そうした部分は家の規模がどんなに小さく、都市住宅になっても必要な部分で、納戸としてはっきりと遮蔽されてはいなくても、いろんなあり方で確実に残っていくし、それがそこに住み暮らす人々との関係、つまり人とものとの関係として一番重要な部分を支えている象徴だ。まあ、そうは考えながらも住宅の設計では納戸が少なくて、いい位置にきてくれなくて失敗することもある(笑)。

— 仮設住宅でも「棚プロジェクト」という活動を展開する若い建築家がいたり、坂茂さんのプロジェクトでは、仮設住宅内の収納をつくるところまでをボランティアが担当していました。

インテリアっていうかな。そういった棚をつくったり、それこそブリコラージュというかな、なけなしのもので組み立てて「身近なもの」を守っていく、というのは今一番大事なところだろうね。

— バラックのこともあり、お伺いしたかったのが、ここ数十年ほどでしょうか、自分たちの手で自分の空間をつくる、ということを住まい手が手放してしまったところがあるのではないか。それは先生がよくお話されている、「住む力」というテーマにつながってくるように感じているのですが。

本来は大学で教える建築のあり方のなかにも含まれていてしかるべきものだね。そういった教育さえも最近はしなくなっている。ただ、昔だって今(和次郎)先生がいたからといって、今先生が大学の中でそれを直接教えていた訳ではなかった。しかし、自ら何かを考えて、最低限のものを工夫してやっていく、ということは教えないし、教えない限り学べない社会にあって、いま何かしらうまい方法がないものか考えていかないとならないだろう。資本主義社会のどこを切り開いて行くか、という困難はつきまとうだろうけどね。
今度の震災については、我々が「震災」という言葉でイメージしていたものをものすごいスケールで凌駕した。さらに決定的だったのが、やはり放射能だね。もう30年ほど前になるけど、ぼくが(教員として)大学に入った次の年、1982年に早稲田大学の100周年記念シンポジウムがあった。そのとき理工学部でね、誰を呼ぶかということになって、バックミンスター・フラーをぼくが推したんだ。ほかには候補でイタリアのブルーノ・ゼヴィなども挙っていたんだけど、フラーは歳もとっているし、是非話を聞きたい、ということで、イサム・ノグチさんを通じて頼んで来てもらうことになった。理工学部で行った世界的なシンポジウムの一つだったんだが、「世界生活器供給事業」というタイトルで基調講演が行われた。最近そのときの資料が出て来て、ちょっと見ていたんだ。そうしたら、その初っ端に、核開発、原子力発電所とは何か、これをやるべきじゃない、そしてこれを推進するために資本側がいかに政治にコミットしているか、それを人々は見抜かなくてはならない、みんなだまされているんだ、といったことを話していた。呼んでおいた我々がこの件についてはもうすっかり忘れてしまっていて、これには本当にびっくりした。ぼくは卒業設計の時期にはじめての原子力発電所ができたりして、核関連技術についてはバラ色の未来、といった印象でいたこともあるし、当時の時代のムードに毒されていたのかもしれない。30年前に生活空間をテーマにした話で、フラーはそのような警句を発したんだ。しかし、我々はそういったことには一切触れず、ただダイマクシオンハウスやフラードームについてだけ質問したりしていたわけ。確かに我々がフラードームへの取組みから学んだ事も確かなんだけれども、フラーが発した警句については頓着しないまま、この間の原発事故が起きてしまった。資料を読み返して改めてびっくりしたんだ。

— もともとエンジニアリングの立場にいる人々はそういう良心のもと動かなければいけないところもありますが。

だけど、アメリカ国内に何基もの原子力発電所ができているわけだ。そういったことは歯止めが利かなかったということでしょうけど、ただああいう風な警句を発するあれだけのひと、そしてそれを招聘した我々の意識が違ったのか、そういったことには耳を貸さずに、彼の発明したフラードームの素晴らしさだけを語っている様、というのがちょっと情けないなあ、と思ってね。フラードームも、そもそも軍に対してレーダー基地を簡易につくるための方策としてたくさん使われてしまったけど、兵舎や非常時のシェルターとして生活空間をつくろうとしたものでもあるわけだよ。

—フラードームやその構造を活用したテントが商品化されていたりもしています。

そうね、だから本当に使っているのはヒッピーの連中しかいない、というような話のオチになっちゃう。しかし彼らはコミュニティーで一生懸命フラードームをつくるわけだ。
フラードームは今回、被災地でどうなんだろう。やはり、生活が合わなくてダメなんだろうか。あの「丸」というのは不思議なもので、ちっちゃくしていくと空間として余分な部分が出て来ちゃって使い物にならなくなってきちゃうんだな。あれ?住まいの原型とか、住まいの蓄え、の話をしていたのか。これはすごく難しい話だな。身近なものとの相性でいえば、身近なものは四角で、空間が円型というのは有り得ることだろうかね。難しい。

—住まい手に求められるもの、というのは前回(2011/11/10—この Web サイトでの掲載は後ほどとなります)のインタビューの際に先生が話されていた「クライアントに対して期待過多になっちゃうんだ」というお話を受けてのもので、期待過多の期待の部分をお伺いできればと。

それには半ば失敗して来ているから、失敗談しか語れないんだよ(笑)。クライアントに対しては、間取りについて何か云々する、というのは正当な方法だとは思うけど、そんなことはすぐに飽きちゃったな。その辺がぼくのまずいところだよ(笑)。間取りについていちいち説明していくのではなく、一生懸命生活というものの考え方や、それから生活に対する意欲をひき出そうとして来た。それをやりすぎちゃっている部分があるんだな。ただ、考え方としては前にも話した(2011/9/22)ように、ひとの生活のためにつくるわけだけれども、ぼくが考える住宅の構想を伝えたい。ぼくがどんなに設計しても、まあ一生に50戸もの住宅は設計できないだろうと最初から思っていた。その頃みんなでコルビュジエやライトがいくつくらい設計していたのか数えた事もある。プロジェクトがいくつで、決裂したのがいくつだとかね。というふうに見て行くと、大建築家といえども、施主には本当にうまく説明はつかないし、説明ついたにしても、こっちも変わって行くけれども、施主(の事情)が変わるんだ。これも「箱と袋」の中に書いたと思うけど、いま、もう子どもはやめておこう、というひとが、来年になればもうひとり増えてたりすることだってある。これ、決定的に違うよね。それからある会社をしていたひとが、会社が傾いてだめになってきたり。この場合は趣味まで経済的な事情から変更される。そうした与件がもうそれこそどんどん変わって行く。だから間取りをいじくっている限りにおいては霧の中を手探りで進むようなもので、明日変わる可能性がうんとあって、多分建てたときにはもう気持ちが変わっていることもある。それくらい激しいものでしょう。これは必ずしも悲観的なことではない。結局それに耐える空間が必要ということに尽きるのだがね。
ただ、ぼくが設計をはじめた時代は、どちらかというと間取りから少し踏み出して、街に住みたいとか、小さくても吹抜が欲しい、という人が多くなってきて、つまり新しい住まい方への欲求があったから、まだきっと建築家の期待過多も成立したんだろう。ぼくもこのアトリエ(ATL)をつくるときも、「都市分居」とかいってね、都市住居の理想像を掲げていた。ここはアトリエと書斎で、向こう(穏田マンション)に離れてベッド・ルームがあってよい、とかいって、そういった生活を実践しようとしていた。 しかし、そのような住まい方もはじめてみたらみたで、それもどんどん変わってくるのだよ。

穏田マンションでのアトリエで
鈴木本人による都市分居のかたち

穏田マンションのアトリエ 『都市住宅 7710 特集』より
穏田マンションのアトリエ
妻のピアノルームであったころの ATL(アトリエ)

<つづく>

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