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実測・スケッチと撮影ー1

鈴木恂インタビュー
風景の狩人:狩りの道程

2011年8月25日

於:AMS

はじめに

—鈴木研究室のOB会では『M』という会報誌が発行されてきました。以前は先生がご担当される巻頭言というものがまずあって、OBの方々の近況報告というものがあったのですが、今回新しくインタビューの形で先生のお話を数回に分けて伺いたいと思っています。
ちょうど発行されたばかりのINAX REPORT 187号に古谷先生によるインタビューが掲載されています。オーラルヒストリーとして先生の幼少と言いますか、生い立ち、原風景と言ったところから、作品まで繋がるような話が非常にコンパクトにまとまっており、建築家・鈴木恂の理解を始めるにあたって非常に貴重なものになっているという印象を持ちました。
とはいえ研究室のOBとしてはもう少し踏み込んだ話題をお伺いしたいということもあります。

実測とスケッチ、手法の確立

—今日はテーマとして「実測」と「スケッチ」、そして「撮影」ということで測る、あるいは測りながら画像として定着させるという部分の話をお伺いしたいと思っています。
まず、「実測をする」ということに興味を持たれたのはいつ頃だったのでしょう。きっかけなどもあればお聞かせください。

吉阪隆正先生(1960年当時)

きっかけははっきりしないけど、実測を意識したというのは直接的には吉阪(隆正)先生ではなくて今(和次郎)先生じゃないかな。たぶん吉阪先生も今先生に影響を受けている。だから今先生のものの見方や記録の仕方、何か対象を知っていくための方法というものが知りたい。そんな欲求がきっかけと言えばきっかけになり、意識させられたということだろうね。

黒板の前の今和次郎先生 1956(スケッチ:鈴木 恂)

—それは直接今先生に薫陶を受けて…

『日本の民家』今和次郎 著(改訂版 1954年、相模書房)
それまでに出版されていたものに内容も増補し発行された増訂第1刷。鈴木が早稲田入学時期に発行され、当時自ら購入したもの
私家版『環境と造形』—当時出版された『環境と造形』に興奮し、読みながら内容のメモ書きをまとめる ために鈴木自身が作成した表紙
『建築家なしの建築』バーナード・ルドフスキー 著

いや、それは直接指導を受けたということではない。今先生は日本の民家の採集という行動を1920年代からやってこられた。それをまとめた本がちょうどぼくが大学の1年の時に初めて出るんです。その日本の民家を調べていくスタイルがぼくの実測に影響を及ぼしてると思う。ただ、今先生と同じような体裁の書き方をしているわけだから、やはり直接的に影響を受けてるんだろうな。指導ではなく影響だね。
その頃まだ実測というか、デザインサーベイというのは盛んじゃなくて、盛んになるのは’60年代を過ぎてから。それから吉阪先生が『環境と造形』という、これは実測的なものではなくて、所謂集落とか、民家とか総まとめにしたような、文化人類学と地理学を一緒にしたような本を出した。『建築家なしの建築』という本をルドフスキーが書き上げる前にそういった本を出すわけですね。ちょっと調べてみても、どちらが先だったかまだはっきりしないところがあるんだけれど。ただルドフスキーは『建築家なしの建築』という本を出すずっと前にニューヨーク近代美術館(MOMA)に展覧会の提案をしている。そして資料にまとめて、美術館に入れてるわけ。ですからルドフスキーは吉阪流の「環境と造形」という捉え方をもうすでにしていて、同じように世界のものを見る目を確立してたと思う。けれども、『環境と造形』という本は非常に早い時期(河出書房、1955年)に吉阪先生がまとめて出している、これは世界的にみて画期的なことであるということは間違いない。
今先生の『日本の民家』が出て、それから吉阪先生の『環境と造形』が出てくる、そういった環境があった。そうしてアノニマスなものとか普通にあるものというのをどう見たら良いのか、そういう目がそこで養われて、それをどう記録していったら良いかという展開になっていったわけだね。で、記録の仕方は今先生がやってるような形から学ぼうとしてた。そのころのぼくには、後で見せるけれども、大学2年から3年の時に、日本をいろいろほっつき歩いている一連の「南下」と称した旅がある。そのほっつき歩いた時に、見た対象をどういう風に記録するかを結構悩んでいて、いろいろな方法を考えた。今先生のようにきちっとやっていった方が良いとようやく気付くわけだね。そういうプロセスがあって、大学3年の時の奄美大島まで南下した時にある程度何か掴んだんじゃないかと思うね。
そこで今先生がやっているようなことは、何と学術的なことかと気付いた。だから学術的にやるなら今先生のようなやり方でもいいけれども、僕はどうも学術的にそういったことはやれないということも分かった。それでかなり自分流のまとめ方、または描き方、記録の仕方というのを考え始めた。だからきっかけはどこかは分からないんだけれども、影響を受けて始めて、自分なりの記録の仕方というものを考えだそうとしている。けれども今先生の影響が明らかにずっと強くて、そういった時代が続くんだ。
その次にメキシコという機会がやってくるわけだね。奄美大島でもそんな感じだったけれども、メキシコの時は調査という気持ちよりももっと「自分が知りたいものだけを知る」ということにしぼって、これはますます学術的に展開するものとは違っていった。 

—メキシコの方は表向きの調査の目的としては、遺跡を調査に行かれたわけですよね。その合間を縫って近くの村に出かけられて、ということですよね。

そうそう。考古学的な調査についてはまたいつか話すけれど、ぼく流の民家集落への旅は、また次の年(1962年)も行ってるから、メキシコの少し広い範囲で見歩くことになった。その両方を足して『メキシコ・スケッチ』というスケッチ集はまとめられている。 

『メキシコ・スケッチ』丸善刊
『メキシコ・スケッチ』丸善刊から

—スケッチで調査というか見たものを記録していくというのを始められた段階で、フィルムで撮るということはどれくらい同時にされていたのですか?

あんまり撮ってないんじゃないかなあ。

—ではその頃は手を動かして、ということが圧倒的に多かったんでしょうか。

そうだね。けれども写真を撮って、少しほめられたりして、調子に乗って増え始めたってことかな。 

—それは学生時代からということでしょうか。

写真というこの表現形式について思い出すと、僕の北海道時代の大親友のI君っていう男が、—後の住宅作品、KAHのクライアント—日芸の写真に通っていて、彼とは大学一年生の頃一緒に下宿してたことがあるんだよ。彼をたずねて写真の学生がたくさん来て、こっちは建築の学生が来て、交流があった。その時に、写真家の名前や作品を覚えたし、写真論を建築論も含めて交わしたね。そういったこともあって僕は写真表現というものにとても興味を覚えた。けれども自分で撮るというのはなかなか難しい。彼のカメラを旅行に出る時には貸してもらって、それを持って歩いた。写真としては残ってないし、まあフィルムを買う金も無かったっていうことだ。それから白黒は自分たちで焼けば良かったんだけど、カラーの時代が近づいてきていてね、カラーは高くてとても。だから、写真に本当に興味をもったのはもっと後だなあ。 <つづく>

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