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実測・スケッチと撮影ー3

鈴木恂インタビュー
風景の狩人:狩りの道程

2011年8月25日

於:AMS

—最初から自分の体の単位で測っていくことを始められたのでしょうか。

そうだね。プランというのは見れば分かるわけで、それが何センチ違おうとどうってことはない、広さを感じればいい。つながりが分かればいい。徹底してそれを見る、で時間があるならばそれをたくさん見て、比較する。そういう見方が楽しい。だからいろんな意味で身体を動員して素早く見る方法を考えていたんじゃないかな。

—いわゆる学術調査はどれだけ正確に物事を記録するか、例えば石の積み方のパターンとかまでもきちんと記録しなければならない、といった方法論のようです。それらとは一線を画しているんだというのは拝見していると良く分かるので、目的と使われ方が違うという、そこがすごく興味深いところです。

『風景の狩人』(彰国社刊、2006年)
—冒頭に「実測小論」が収録されている

実測というのはそこの場に行って、気分や感覚でぶちあたった対象を早く記録して、それをこう自分の中に吸収していくっていうことが第一なんだよね。『実測小論』の中で実測の定義を一生懸命やろうとしているけれど、要するにそこで「メジャーリング」とか「スケーリング」とかいう言葉を使ってみてもなかなか説明はついていない。だけどその時の気分というのが確かにこの文章に表れている。理屈より行動を通して見るのだからね。

遠景と近景

—測りながら見る、あるいは「触る」というような言葉で説明されていることが多いようですが、そういうものの見方については、どのようなプロセスを取られるのでしょうか。引いて全体的にオブジェクトのように見るという見方と、徐々に近づきリニアに見ていったものが最終的に再構成されて繋がって全体像になってくるのと、両方あるように思われますが。

空間という言葉では説明がつかない場合があると思う。われわれが建築で獲得した空間には軽重があったり疎密や明暗があったりする。それを触知的と表現してみた。触る感覚を意識して見る。それに対して遠くから空間を眺める場合だってある。いくら離れても対象のもつ触知性は大切だ。つまり繋げて見るためにそれは重要だ。
メキシコスケッチにも書いているけど、街や村というのは、訪問したら必ず全体を描くべきだと。バッととらえる。それから村の家を訪ねて、触って、対象のつながりを知るわけだ。

—これは順番としては引いた(場所からの)ものを最初に描くんでしょうか?

それはこだわらない。ただ、視界や、視点の動きをものすごく意識する。そこで見えてくるもの、そこで分かってくるもの、とどのつまりが「触覚」の連続なんだよ。だから視覚で見る、音で聞く、五感をフルに活用していくわけだけど、結局は中に入ってこれを触って納得する。それが光や影の場合であっても触ったように感じられるかどうか、それを感じ取ろうとする動きが、いずれにせよ大切だと思うんだ。

—光を触った感じがするというお話が出たところで、気になっていることがあります。先生の作品でガラスブロックとか、開口部としてではなく、おそらく壁の表現としてガラスを使われているものが結構あります。それらを見た時に、その「光の壁」というものをつくりたいということではないのか、「光が壁になっている」ということが、そういうガラスブロックでの表現だったりするのかなと思うことがあります。

最終的には形になって現れてくるわけだから。空気に触るという感じであっても、最終的に建築として設計して、それが光といえば「水泡空間」とか「光壁」とか、そういう形を与えていかないといけないわけだ。それがガラスブロックの壁だったりすると、その閉じ込めたりする強さや半透過性が高まり、外と内でまさに光の触覚が違ってくるということでもある。

—さきほど話に出したINAX REPORTのインタビューの実測のお話のところで、興味深かったのが外と中で歩幅が違うから係数を掛けるんだよっていうお話がありましたが。

上り坂と下り坂とか。野外と室内でも違うから自分なりの尺度係数があった方がよい。要は測りたいものは何か、何が知りたいか、何を求めているかというそこの違いによる。

—実測には動きがともなうということですね。

さっきの視点の話でいうと、まず人間に興味がある、それから街の通りに興味がある、それともう少し引いて街の全景というか、全体のかたまり加減や散らばり加減、そういったところに興味がある。そうしていくと遠景近景という、そこを行ったり来たりすることが必要になってくる。そうすると、やっぱり動かないといけないということを意味してるんだよね。

—遠景近景でいうと、カメラでズームレンズっていうのが出たことによって単焦点だと自分が行ったり離れたりしないといけなかったのが、その場にいるまんまに「ギュッ」と寄れるようになったりとか...

だから僕はズームレンズは好きなんだよ。でも動かなくてすむって形になってきて、ちょっと足が萎えてくるんだな。そうすると一緒に頭も萎えてくる。ズーム機能は要注意だよ。

—ただ、撮られる対象の方が単焦点で寄っていくと警戒しがちだけど、ズームだと...

『回KAIRO廊』中央公論美術出版刊
『回KAIRO廊』中央公論美術出版刊

そう、ぼくがズームを使ってる理由は人物を捉えるためが多い。人の動きを自然に撮るためにはズームじゃないとね。時間が十分にあって、テーマを定めて撮ろうとしているカメラマンと違って、この空間で人がどう動いてるか、この空間にどう人影が滲んでいるか、そういうことを知り、記録しておきたいんだ。そうするとズームで気にされないようにした方がいい。ズームのお陰でたくさんの人を撮ってきた。

—いまの遠景近景について吉阪先生はどのようにスケッチされていたのでしょうか。

吉阪先生は膨大なスケッチをする。いわゆるパタパタスケッチだね。おそらく絵にしようとはちっとも思ってない。ただ水平に動くもの、目の前のものを克明にとらえようとしてる。だから遠近の省略はあんまりしない。絵心が確実にある先生だから、絵を描こうと思えば描けたはずだけれど、絵にもっていこうとはしてないんだよね。それから一番不思議なのは遠景近景を同列にし省略しないこと。
吉阪先生が亡くなって、その絵を後から整理するかたちで見て、ああいう絵は僕には描けないし、描いてたら僕は全く体がもたないと思った。僕は殴り書きでは一緒のスピードで描けるけど、あそこまでこと細かく全体を描くことはできない。だから先生はズームじゃないんだよ。細かいところは細かく、ちょっとしたところはちょっとして、中間も何も無いんだよ。

—前にお話されていた今井先生や今先生はいかがでしょうか。

今井先生のスケッチというのは確実に一服の絵、一つの決まった情景なんですよ。どちらかというと静物画、スティルライフです。スティルライフとしての建築のある景色というのをおさめていくわけです。だから視点がもう確実に決まって、そこの中で絵としての遠近を描いていくわけだね。だからシャルトルの塔が遠くにあっても、尖塔を貫き建ってる、その厳しさがわかるように描けるわけです。絵が描けないとあそこまでいけない。
だから僕は直接的には今先生から学んでいて、そこにあるものを抽出して、興味のある部分だけを描く。今先生も全体の風景とか描く、敷地とか、山の谷間にあるとか、を描くけど、遠景のもつトポロジカルを押さえるために描くわけです。ぼくはそのあたりにはかなり影響されていると思うね。

奄美大島の入り江に展開する村落
ひとはこのようなランドスケープの場所に「集まって住む」のだということがよくわかる

—話は変わりますが雑誌の特集で、「幾何学のレゾナンス」というディテールと全体との関係を語った論文がありますが、あれは早大の55号館のものかと思います。あのようなディテールのクローズアップのスケッチは設計のときに意識して描かれるんでしょうか。

あまりしないなあ。ただ例えば、壁だったら壁のエッジのところに興味があるとか、開口部の窓のところの仕組みに興味があるってことで全体と部分の関係を絵解きすることは、いくつかやってるけどね。
教会なんかに行ったときのスケッチは、教会の全体を描く気はしなくて、どこから光を入れて何を考えてこんなことをやろうとしてるか、そっちの方を探るためにディテールをたくさん描くことがある。覚書きのように断片になってスケッチにならないんだけれども、これも実測のひとつであって、それが設計のときに甦るということはあるよ。

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