interviews

つくること-1

鈴木恂インタビュー
風景の狩人:つぎの狩りまで

2011年9月22日

於:AMS

「ものをつくる」ことにまつわるお話を伺いました。

—前回のインタビューでは「実測・スケッチと撮影」をテーマに、旅に出て、経験を含めて収集することをテーマにお伺いしました。今回は「つくること」というテーマで旅から戻り、実際にものをかたちづくる際の姿勢に関してお話を伺いたいと思います。

「アノニマスなもの」への指向

—前回のインタビューの前半に吉阪隆正先生の「環境と造形」といったテーマで「アノニマスなもの」についてのものの見方、取り上げ方、といったお話がありました。先生がものをかたちづくられていくなかでの、「アノニマスなもの」への指向についてお聞かせください。

「建築家なしの建築」というのはいい言葉だよね。「アノニマス」って言っちゃうと少し分かりにくいんだけれども。建築を考える時に「生活」あるいは「生活の空間」が、若くても最初にわかるわけだよ。そこから規模が大きくなって、学校の建築とか公共性の高いものになってくればくるほど、なかなかその段階になると空間の糸口がつかめない。そこで多くの場合、住宅、または集合して住む、そういう単位から建築を考え始めてると思う。ぼくも同じようにしてそこから始まっている。ただ、住居から始まったときに、最初から誰々の設計した何々邸からだけでは勉強できないんだよ。それは一種の抽象化されたものとして、または関連したものが幾重にも取り巻いていて、感想としてかっこいいとか何とかとは言えるけれど、それ以上は進めない。ある種作品のバイアスのようなものがあってね。
じゃあ、「住むこと」とか「住むための空間」というのを実感として得たいと思う時に、何からアプローチしたらいいか考えると、それが「アノニマスなもの」ということとつながってくる。つまり、歴史というか、時間をかけて人々が生活の中で考えだしたものが、集積されているものとしての形、姿、または空間というものを探し求めて。それから自分のつくろうとしてるものに近づこうという、そういう一つのプロセスを経てるんじゃないかと思う。片方では、そうはいいながら建築の勉強はしているし、生意気に建築論を若いなりに戦わせてるわけだから、あの先生のこれはここがいいとか、自分の感想を話すこともできるようになる。けれども、それと実際自分がつくっていくときの芯になるものとは乖離しているというか、少なくとも最初は一緒にならない。それが「住むこと」や「住むための空間」を徐々に勉強していくうちに、一緒にできそうだと思えるところにくるんだ。

—直接何かを参照してかたちづくることはない、ということでしょうか。

アノニマスなものを即建築に持って来られるかというと、それは「ない」と思う。ただ、だから何をやってるかというと、建築家になる姿勢を固めるための一つの土台をつくるとか、ある種自分にため込む実体というか、根っこにする思考、そういったものをつくるための勉強をしたと思う。見たものが即、つくることにはつながらないと徐々にわかってくるんだよ。だから、アノニマスなものが建築とどうつながって、またそれが下地となって確実にその上に何か築いたかというと、そういう関係はない。ただ、自分が問題意識を持ったり、建築家としての自覚を固めれば固めるほど、自分を少しずつ肥やしていかないといけない。その肥やすときに、アノニマスなものをよく見て、そこで訓練するということは大いにあり得ることだ。ぼくの場合はそういうかたちでのアプローチをしていて、つくるものとの間に連続したような問題意識というのはないということだ。

—アノニマスなもの、つまり人々の暮らしの中でかたちづくられてきたものは「時間によって練られてきている」という点を大事にされたい、ということでしょうか。

そう、その確認みたいなことかな。Aの地点で確認してBの地点で同じような確認をする、ちょっと違う場合はなぜかという疑問になってくる。世界を見ていくとバラバラなこともあって、しかし人間の生活の上で共通していることもあって、ここはより大事だというような比較で、徐々に全体を見渡せるようになってくる。

—ある程度の類型化ができるのではないか、ということでしょうか。

ある程度の類型化はできると思うんだけれど、あんまりそれを分類していくと元も子もなくなっていく可能性もある。そこがアノニマスなものを勉強するときの難しいところじゃないかなあ。

—言葉が悪いかもしれませんが、「ネタ」ではないということでしょうか。ただ、風土が異なっても似たような空間装置が存在しうる、という「気づき」は様々な場所に出かけることによって拾われてくるように思いますが。

だからそういった興味で「自分を動かしていく」というのはある。狩りに出るようなものだよ。例えば食事をする時にどのようにしてるんだろう、ということひとつとってみても、たいていはテーブルがあるよね。しかし、テーブルがないところだってあるわけだ。立ち食いだってあるし、座ったままで食べるところもある。そうしたときに、食べるという行為、そのための場所はどういうことだろうという比較にだんだんなっていったりするじゃない。結局、人間を知りたい、という感じになってくるんだよね。建築設計というものの中に人間学があって、そこが大切なのかなという気もしてくるね。

—そこには何か結論めいたものがあるのでしょうか。

そういったことではないだろうと思う。建築の課題として空間をつくるとか、美しい形をつくるというのと良く似てるんだよ。全く普遍的に、それは絶対永久的な問題であって、何をやっても全く解決にはならないんだよ。近づいていこうと思うんだけども、そのはずだと思っても、求める空間はまた先にあるわけでしょう。それに良く似てるんだ。だからいろんなところの生活を見ても、結局この生活は最高だとか、何かの時にこういう生活の対処の仕方の方がいいという程度で、何かには当然作用しているはずだけれども、決め手を与えてくれるという感じではないよ。 

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