interviews

つくること-3

鈴木恂インタビュー
風景の狩人:つぎの狩りまで

2011年9月22日

於:AMS

「建築」に携わる覚悟と多様性

—以前お話を伺った際、様々なことが雲のようにあって、その時の気分によってつながり方が変わるんだよ、というお話をされていたことにも通じるように感じられます。

建築というのは、つくられかたが大変なんですよ。だからそれを何か一つに決めるためには相当な道程を経なければいけないと思う。建築に関わる以上はこういう雲のようなものを相手にしたプロセスを越さなければならないという意識はあったね。
ぼくは「空間」ということをできるだけ、声に出して言う方だけど、機能があって、生活があっての空間でしょう。空間の中で、機能の中に「美」なんてのも含まれているわけだ。そんな対象をつくらなくちゃいけない。必ずそこに生活というのが入ってきて、人間という生身の身体が入ってくる。身体が入ってきて、その家族があり、それが集団になり。近隣があり、街になったり、というかたまりまで建築とつながってるじゃない。だから、この職業は、この身体とその延長の集団まで考えなくちゃいけないんだよ。そんな職能というのはあまりないんだよな。そしてそれにそれぞれ何らかの答えを出していくんだね。だからどこか一つ数値が変わると、考え方も変わってこないとおかしい、全てがそういう雲のような関係にあるんだよ。

—西洋由来の建築家像というものを考えると、先生のアプローチはそれとは少し異なるのかなという印象も持ちます。例えばルネサンス期の建築家がしたように、ファサードだけのプロジェクトが来た時、それはどのように解決し得るのでしょうか。

ひょっとするとできないかもしれないな。商業建築というのもあまりやってないから、ファサードだけというのもできないだろう。だけどそうでもないぞ。西洋の中でのファサードだけ設計している、というのはやはり「中が見えている」または「中を考えてのファサード」と考えてみるべきだよ。

—それは透明性の話ということでしょうか。

それもあるけれども、やはり建築家になる人の眼力の修練というかな、そういった過程の中で、中の空間を見越した上でファサードを組み立てて行く、といったものがちゃんと組み込まれている。ファサードの一面に集約的に仕事が現れているという感じじゃないかな。だから石工の仕事を知らないで、メーソンリーのファサードというのはやはり考えられないんだよ。それから、そこから出ていく一つの典型的な、例えばバシリカだったらバシリカ風の、それが頭に入ってないとやはりあのファサードは出てこない。結果的にファサードで一番力を入れたり、一番飾りをつけたり、ある程度の装飾的な要素はあるとはいえ。その辺がルネサンスの建築家たちの眼力のすごいところじゃないかな。

空間の表層と骨格

—表層の話でいえば、ラテンのバロック建築はたくさんご覧になっていると思うのですが、過剰な装飾そのものをあまり見ていないんじゃないか、装飾そのものよりも空間のフレームのほうに意識がいってるんじゃないかなという印象があります。先生がよくおっしゃる「空間の骨格」というものを表層的な装飾と分けてご覧になっているのかなという印象があるのですが。

分けてないけれど、ぼくの眼はそこまでしかいけないんだろうね。まあ当然、装飾をもってその空間が成立してるわけだから、それは見てるわけだけれども、ぼくの眼力はそこまでだろうね。そこからその装飾が何であるからどうだ、というようなところまでは行けない。もちろん指向の問題でもあるけれどもそれは能力の問題かもしれない。ただバロックというのはアイデアが自由だから、ぼくは好きなんだけどね。だけど装飾のレベルでバロックを見ようとすると、ちょっと見られないんだよね。ただ、バロック特有の面白さというのはうんとたくさんある。ローマにはバロックがたくさんあるね。
バロックとは全然違うんだけども、ペレのフランクリン通りのアパートメントがあるじゃないか、ぼくはあれが好きなんだね。今でもパリに行くと必ず見に行く。都市住居の骨格がきちんと見えていて、装飾がある。レリーフというかね、花模様、葉っぱ、いちじくなどをかたちどったタイル。あれはいいよね。ぼくもあそこまではついていけるんだ。だからアールデコの気持ちはよくわかるわけ。あの覆い尽くさないでかなり省略しながら、全体の形や骨格の中でそれでも装飾と言えるかどうか、というギリギリの線を模索している。だからアールデコで、時々納得するものが多いね。

—例えばヨーロッパだと、エッフェルにしても、アンリ・ラブルーストにしても、鉄を素材に使いながら古典的なボキャブラリーでの装飾表現をしています。ただ、素材が違ってその能力が変わってきているので、骨格の大きさも変わってくるようなことが如実に現れたりしています。

あれは空間化された装飾という気がするんだよね。バロック後期のは空間化されない、いわゆる表皮の装飾という感じがするよね。多分アドルフ・ロースが否定したのはそっちの方だけであって...。アドルフ・ロースは我々からみてもいろいろなものの使い方がうんと装飾的じゃないか。あれはまさに空間化された装飾だ。今のエッフェルなんかもそうだな。それとやはりゴシックという時代を経ているということが案外大きいと思うね。特に骨格というものを考えた時にね。石であれだけ骨っぽいものをつくっていくわけでしょう。石塊だけだったらたぶんロマネスクですよ。ゴシックのなんていうかな、鋭さっていうのかね、あの歴史がいろんな意味で建築の装飾に与えた影響は大きいんじゃないかな。

—先日、イギリスの皇太子がウエストミンスター寺院で結婚式を挙げる様子がテレビ中継されました。本来森を空間化したとされているゴシック教会の内陣に装飾として樹高5mを超えようかという樹木が立ち並んでいるのを見て、装飾の意味が入れ子になっているような気がして驚きました。

いにしえ、暗い森の中にいて、そこから光を求める、というゴシックの演出につながってくるわけだ。アールヌーボーなんかにしても、一時そこを経るんだ。徹底して植物的な、植物のリアルな飾り方、装飾化というのを経るよね。しかし、不思議なのがギリシャの柱頭の様式だよ。
いずれも立体にしていくとものすごく難しいよね。ドリックでとどめないでああいうふうにやっていって、それこそローマからルネサンスからずーっと延々とつながっていって...。
ああ、今思い出した。スケールは全く違うけど、今和次郎先生が授業でビスケットを持って来て話されたことがあって、ビスケットっていうのは、ふちに飾りがある。様式の飾りはこれだっていうのね。ビスケットの端っこはどうしてもなくちゃいけない。確かにそういわれてみると、この飾りがないと始末が付かない(笑)。コインのギザギザとかも、つかみやすいとかじゃなくて、あれはやっぱり飾りだと。ギザギザがない時には真ん中に穴をあけるとか。真ん中か端っこか、どちらかに装飾を付けないとコインとして成立しない。ビスケットはビスケットとして成立しない。キャピタルのデッサンをしてる時にそういう話をしてくれるんだけど、まあ装飾とはそういうことですよ。

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